【大野城】(糟屋郡宇美町、大野城市、大宰府)




【特別史跡 大野城跡】
「今から約1300年前天智天皇二年(663年)百済救済のため朝鮮半島に出兵した日本軍は白村江の戦で唐・新羅軍に大敗した。翌年敵の侵攻にそなえて防人と烽(のろし)を置き水城を築きさらに665年には百済からの亡命貴族の指導によ大野城基肄城長門城(山口県)を築いた。 大野城は大野山全体を城とする雄大な構えの朝鮮式山城で山の稜線にそつて土塁をめぐらし谷には石垣を築きその内側に倉庫等の建物を設け大宰府が危急の場合逃げ込み長期戦籠城防戦できるしくみになつている。

概 要
土塁の総延長・・・8㎞
土塁の外周・・・6.5㎞
城   門・・・4ヶ所
石   垣・・・5ヶ所8㎞
建物・・・8ヶ所70棟㎞


特別史跡「大野城」 四王寺の案内板より

上の写真は、大野城内にある四王寺跡地です。周りには尾花、増長天建物群の礎石が残っています。場所は太宰府天満宮より車で10分ほどの北西方面の山中にあり、ちょうど太宰府市と宇美町の境界辺りになります。






【特別史跡 大野城跡 「百間石垣」】
「大野城の城壁は土を高く盛り上げた、土塁で囲んでいるが、起伏の激しい地形のため谷間は土塁でなく石を 積み上げたダムのような石塁とし、急傾斜部は石垣を作るなど工夫をこらしている。この「百間石垣」の名称は、 四王寺川の部分を石塁とし、それに続く山腹部を石垣とした城壁で、長さが180mほどであるあることから名付け られたものである。平均4mくらいの高さが残っており、川底部では石塁幅は9mほどである。外壁面の角度は75度前後である。
この川の中から今までに3個の礎石などが発見されており、川に近い場所に城門があったと考えられる。」

「百間石垣」の案内板より




【大野城宇美口(北口)城門礎石】
「この礎石は昭和四十八年に百間石垣の傍、四王寺川の川底から発見された大野城の宇美口城門礎石である。現在確認されている大野城の城門は宇美口、太宰府口、坂本口、水城口の四ヶ所であるが北向の城門は宇美口のみである。以前から重要地点と考えられていたところである。文献には門礎一個の記載があり、また昭和三十四年頃付近で発見されたといわれる門礎一個(現在宇美八幡宮蔵)があるが今回の礎石発見により宇美口の位置が明らかとなるであろう。ただしこの礎石は宇美八幡宮のものと形状が異なること、他の礎石が円柱用であるのに対し角柱用礎石であることなど、尚研究の余地を残している。」

福岡県四王寺県民の森

「城門礎石」の案内板より





【建物群跡についての案内板】
「ここには10棟の建物群の跡が残っている。これらは礎石が各建物の範囲内に碁盤目状に配置されており、床を人の背丈ほどに高くし、それを多数の柱で支える建物であった。このようなもので有名なのは奈良・東大寺の正倉院がある。 大野城でも倉庫として武器や食糧などの備蓄のために建築されたものであろう。
10棟の建物は、ほぼ南北方向に5棟が一列に並び他の5棟もそれぞれ計画的に配置されている。建物の大きさは梁行6.3m桁行10.5mで統一されている。」

特別史跡 大野城跡 尾花地区 四王寺の案内板より


「ここには大野城中央部のやや西方にあたる場所で、下方一帯には建物群の礎石がたくさん残っている。建物は14棟あり、すべて高床の倉庫で、ほぼ南北向に建物の長軸をそろえ計画的に配置されている。倉庫は梁行3間×桁行5間(6.3m×10.5m)の広さで、非常時のために武器や米などを備蓄したものである。」

特別史跡 大野城跡 八ツ波建物群 「県民の森」の案内板より

写真は尾花、増長天建物群を撮影したものです。




太宰府口城門

【太宰府口城門】

大野城とは
大野城は、今から約1300年前に、国土を防衛するために築 かれた砦です。山の尾根に土塁を巡らし谷を石塁で塞ぎ、 城壁を築いています。現存する古代山城の中では記録に見 える日本最古の城です。

太宰府口城門とは
大野城には4ヶ所の城門が知られています。南側(大宰府 側)には3ヶ所設けられており、そのうちの一つが太宰府 ロ城門です。発掘調査前には唐居敷(門扉の敷居・からいじき)の一部 が確認されていただけです。 この城門に接して、左手には 谷筋から進入してくる敵を拒むように築かれた石塁(水の 手口石塁)が、右手には焼米ヶ原に延びる土塁が築かれて います。この城門は大宰府政庁側に位置し、規模が最も大き いことから大野城の正門ではないかと考えられています。

城門の変遷
発掘調査の結果、城門建築や両袖石積みの変遷が明らかに なりました。城門は、最初に掘立柱(ほったてばしら)形式の建物が建てられ、 次に礎石形式へと大き<建て替えられています。また、礎 石形式の時には、規模はそのままに門柱の両袖を石積みで 塞ぐ改修が行われたことも判明しました。掘立柱形式の建 物規模は3×4間(9m四方)でしたが、礎石形式の建物 では1×1間(5.2m四方)とやや小さくなり、ます。 礎石形式の門は二階建て楼門形式が想定され、大野城の 堅固な守りと威厳が示されていたのでしょう。

               

平成11年3月31日 福岡県教育委員会

「大宰府口城門」の案内板より





大石垣

【大石垣】

大野城と大石垣
 大野城跡は白村江の戦(663)の後、大陸から の侵攻に備えて西日本各地に築かれた山城の一つ で、百済の亡命高官2名の戦略的技術のもと築城 されたことから、朝鮮式山城と呼ばれています。  尾根から少し下った所に土塁と石塁を巡らせ城 壁とし、要所に城門と水門を配置していました。  この場所は大石垣と呼ばれるように石のみで築 かれた長さ100mほどの城壁で、尾根の間にある 二筋の谷を跨ぎ構築されています。現状で谷部分 の石垣の高さは7mほどあります。

災害復旧事業主:太宰府市教育委員会
平成20年3月 解説板設置:福岡県教育委員会

     
「大石垣」の案内板より






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【水城】(大野城、太宰府)



水城跡

【特別史跡 「水城跡」】
「水城は、天智天皇三年(六六四年)に、大宰府防衛のために築造された土塁である。
前年の天智天皇二年(六六三年)、我が国は、唐、新羅連合軍と白村江において百済と共に戦って大敗し、 戦いに敗れた我が国は、朝鮮半島からの侵攻に備え、当時、博多の那の津にあった大宰の府を、軍事的に有利な 現在の大宰府跡(通称都府楼跡)に移し、その防衛のために北面の四王寺山に大野城を、南面の基山に基肄城を 築き、これらを結ぶ平野部に水城を築造したものである。
現在水城は、大土塁の他に、大野城市大字上大利に上大利土塁、春日市大字下白水に大土井土塁、同上白水に 天神山土塁が遺存している。
水城の築造方法は、昭和四七年の発掘調査の結果、砂質土と年度を何十層にも交互に突き固めて積み上げたもので あることが明らかになった。また昭和五〇年の調査では、土塁の前面である福岡市側に幅六〇メートル、深さ四メートル に及ぶ濠があり、土塁の中には濠に水を導き入れるための木桶(木製の導水路)が長さ八〇メートル、幅一.五メートル、 高さ〇.七メートルの規模で通っていることが確認された。
昭和四七年の春日市の大土井土塁の調査によっても、前面に濠状のものが確認されており、水城とは前面に水を貯えて、 大宰府に攻め込む敵を防いだものであろうと想定される。このことは、『日本書記』天智天皇三年の条にある。 『又筑紫に大堤を築きて水を貯えしむ。名付けて水城と曰う。』という水城築造の記事と一致するものである。」
               昭和五一年三月三一日
                                    

福岡県教育委員会
                                    
「水城跡」の案内板より


写真は岩屋城跡からの眺望で、中央よりやや左側に斜めに走る森が水城跡です。右手が福岡市街地や博多湾で、左手が筑紫平野北部になります。水城跡に関しては意外な話の「福岡にも長城があった!」にも説明を書いています。



GoogleMap より埋め込み


関連記事:水城




【御笠の森】(大野城市山田)



御笠の森

【御笠の森】
 この森は御笠の森と呼ぱれています。奈良時代に作られた「日本書紀」には

仲哀天皇のお后である神功皇后が、荷持田村(のとりのたのふれ・今の甘木市秋月字野鳥) に住む羽白熊鷲という豪族を従わせようとして橿日宮(福岡市東区香椎)から松峡宮(朝倉郡筑前町) へ向かわれていると、突然つむじ風が起こり、皇后のかぷられていた笠が吹きとばされてしまった。 そのため、その場所を名付けて御笠というようになった。

と書かれています。そして、江戸時代に作られた『筑前国続風土記』には、 その笠が引っかかったのがこの森だと書かれています。  大野城市域を含む筑紫地区は、明治二九年以後筑紫郡と改称されましたが、 それ以前は御笠郡と呼ぱれていました。御笠の森は郡名や川の名などの由来になっているという伝承を持つていることと、 良く成長したスダジイやモチノキ、タブノキ、ヤブツバキ、ヤブニッケイ、カクレミノなどで構成され、 西南日本の代表的な照葉樹林の姿を良く残していることから、 末永く保存保護していくため、平成七年五月二十二日大野城市の有形民俗文化財と天然記念物として指定しました。 いつまでも大事にしていきたいものです。
         平成十七年三月三十一日

大野城市教育委員会
「御笠の森」の案内板より


以前はこの森に神功皇后を祀る社があったようですが、現在は小さな祠(ほこら)と万葉の歌碑が置かれています。 この万葉歌については貝原益軒の「筑前国続風土記」に面白い話が記載されています。詳細は意外な話の「万葉歌の意外な解釈」に書いています。






















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