【岩戸山古墳】(八女市)



岩戸山古墳

八女丘陵は東西10数㎞におよぶ丘陵である。 この丘陵上には12基の前方後円墳を含む約300基の古墳がつくられ、 八女古墳群と呼ばれている。八女古墳群のほぼ中心に位置する岩戸山古墳は 九州最大級の前方後円墳で、東西方向に墳丘長約135m、東側の後円部径約60m、 高さ約18m、西側の前方部幅約92m、高さ約17mをはかり、 周濠、周堤を含めると全長約170mになる。墳丘は二段築造で、 内部主体は未発掘のため不明である。 古墳の東北隅には周堤に続く一辺約43mの方形の区画(別区)が存在している。 岩戸山古墳は日本書紀継体天皇21年(527)の記事に現われた筑紫君磐井の墳墓であり、 全国的に見ても古墳の造営者と年代のわかる貴重な古墳である。
古墳の墳丘・周堤・別区からは阿蘇凝灰岩でつくられた多量の石製品が 埴輪とともに出土している。 種類も人物(武装石人、裸体石人等)、動物(馬・鶏・水鳥・猪?<犬?>等)、 器材(靭・盾・刀・坩・蓋・翳等)があり、 円筒埴輪などとともに古墳に立てられていた。石製品は埴製(土)を石製に代え、 さらに実物大を基本とした所に特徴がある。

「岩戸山古墳」案内板より




関連記事:岩戸山




【水田天満宮】(筑後市水田)



筑後市にある水田天満宮は鎌倉時代に菅原道真公を祀り創建された神社になります。幕末の志士・清川八郎は「九州第二天満宮なり」と自著に記述していることが水田天満宮のページに記載されています。
この地は、筑後の志士・真木和泉が10年ほど蟄居したところで、現在も神社の南西100mほどのところに山梔窩(さんしか)という史跡が置かれています。ここには筑前の志士・平野國臣や前出の清川八郎が来訪し、尊王攘夷の策源地となっていたものと思われます。

また水田天満宮本殿の北に接するところには末社の恋木神社(こいのきじんじゃ)があり、恋する女性やカップルの聖地ともなっています。
そのほか境内には、スズメバチを退治して住民を助けた鷽の像やさざれ石などが置かれ、観光でも見どころがあります。




関連記事:山梔窩




【柳川城跡】(柳川市)



柳川城跡

    柳川市大字本城町八八の二番地
    柳川市史跡指定 昭和五十三年五月一日

柳川城は永禄年中(1558~1569)蒲池鑑盛によって本格的な城としてつくられたもので天然の要害である。 水の利を充分にいかした平城で堀をめぐらし扉の開閉によって場内の水が増減出来るようになっていた。
鑑盛の子鑑漣に至り天正八年(1580)龍造寺による数ヶ月に及ぶ攻撃に耐え柳川城攻略を挫折させた。 翌年龍造寺により佐賀に於いて謀殺されその一族もすべて殺害され応永以来の蒲池一族は滅亡した。
天正十二年(1584)大友勢の筑後攻略にも柳川城に一指だも染め得なかった。
天正十五年(1587)立花宗茂が豊臣秀吉の九州平定に際してその功により筑前立花城より十九才で当地にうつされたが 慶長五年(1600)関ヶ原役において西軍にくみしたため在柳わずか十三年にして解任された。 この後に岡崎城主田中吉政が筑後一円三十二万石の領主として入国し柳川居城とするに及び石垣を更に高くし 天守を築き従来にも増して防備を厳重にした。
戦国動乱の二度に及ぶ攻撃にも陥落しなかった本城はここにおいていよいよ天下の名城としての名声をたかめた。
当時人々が(柳川三年肥後三日肥前久留米は朝茶の子)と言ったのは柳川城の堅固さを如実に物語ったものといえよう。
元和六年(1620)田中吉政の子忠政に後継なく断絶したため奥州棚倉一万石より 十二万石の領主として立花宗茂が再度当地に入国した。 以来明治維新を迎えるまで二百五十年間立花藩の居城であった。 明治五年(1872)正月十八日夕刻火を発し慶長以来威容を誇った天守閣も一夜にして消失した。
石垣については明治七年(1874)の台風により海岸堤防が決壊したためその補強に転用された。
昭和三年(1928)のかい開田後柳川商業高等学校(現在の柳川高校) 柳城中学校がたてられ現在に至っている。
今は古城を偲ぶ面影はさらになく  わずか開田を免れた天守閣跡のみとなり時代の要請にこたえたとはいえ往時を懐古すれば興衰のはげしさを物語るものといえよう。


柳川市教育委員会
柳川城跡



柳川藩主立花氏12万石の本拠となっていた平城跡。 永禄年間(1558~1569)蒲地鑑盛入道宗雪が、 支城として築いたのがはじまりと伝えられています。 天守閣の高さは、10丈7尺5寸1分(約35m)、石 垣の高さは4間1尺5寸(約8m)、天守閣の棟には鯱 があり、その目は金色に輝いていたというほどの栄 華をきわめた名城でしたが、明治5年に焼失。現在、 は柳城中学校の校庭の一隅に小丘と石垣の一部を残 すのみとなっています。

(昭和53年5月柳川市文化財史跡に指定)



 柳川城は永禄年中(1558~1569)蒲池鑑盛によって、近世の城郭の基礎となるもの が整備され、蒲池氏が滅んだ後に、天正15年(1587)立花宗茂が入城しました。  その後、慶長5年(1600)関ケ原の役に功をたてた岡崎城主田中吉政が、筑後一円 の領主として入城すると、天守閣を備えた本格的な近世城郭を築きました。天守閣は 約8mの石垣の上に築かれ、5層からなり、高さは約35mであったといわれています。 本丸・二の丸の外周には城湟がめぐらされ、現在一部は川下りコースとして利用され ています。  戦国の動乱の2度に及ぶ攻撃にも陥落しなかった柳川城は、水の利を生かした名城 として知られ、田中氏の断絶後は、元和7年(1621)立花宗茂が再び城主となり、以 後、立花氏10万9千石の居城として、明治維新を迎えます。  しかし、明治5年(1872)1月18日、この天下の名城も失火により焼失し、石垣も 海岸堤防の補強に使用されるなど、現在は、柳城中学校の校庭の一隅に小丘と石垣の 一部を残すのみとなっています。

(昭和53年5月柳川市文化財史跡に指定)


水郷柳川には城址の他、立花家別邸だった「御花」や北原白秋の生家跡などの観光名所があります。




関連記事:柳川




【塩塚城跡と蒲池氏百八人塚】(柳川市大和町塩塚)



百八人塚(後方が塩塚城跡の地)

大和町文化財


塩塚城跡
指定 昭和五三年一一月一四日
所在 大和町大字塩塚下塩塚地区
「百八人塚」の北東約二〇〇メートルの所とおもわれる。

近世初頭の平城で、本丸の規模は、東西一五間(二七メートル)、南北一四間半(二六・一メートル)でした。 天正年間(一五七三~九一)、柳川城主蒲池鎮並(かまちしげなみ・鎮漣)の一族塩塚石見守がこの城を守りました。
天正九年(一五八一)五月二七日、佐賀城主龍造寺隆信は、佐賀の与賀(よか)で鎮並を謀殺、その勢いで翌二八日、 鎮並の弟統安(むねやす)が守る柳川城を攻め落し、さらに六月一日、統安の二男塩塚鎮貞(しげさだ)が守る塩塚城を 鷹尾城主田尻鑑種(あきたね)と共に攻めました。 鎮貞ら一族は、ことごとく討死し、城はついに落ちました。


蒲池氏百八人塚
指定 昭和五三年一一月一四日
所在 大和町大字塩塚字塚
宗樹寺前。

天正九年(一五八一)五月二八日、蒲池統安が守る柳川城が落城のとき、 鎮並夫人玉鶴姫を始め、子息・侍女ら一〇八人は、統安の二男蒲池鎮貞が守る塩塚城へ遁れました。 六月一日、塩塚城は、佐賀城主龍造寺隆信と鷹尾城主田尻鑑種に挟み撃ちにあい、落城しました。
一〇八人は、最初の間、少し東の蒲原(かまはら)に隠れていましたが、ついに自害または殺害されました。 後日、遺骸を宗樹寺の前に集め、弔ったのが百八人塚です。
玉鶴姫の遺骸は本堂の横に埋葬し、その上に若宮神社を建立、のち下塩塚の住吉宮の合祀したと伝えられています。


大和町教育委員会

大和町文化財の案内板より




関連記事:塩塚,百八人塚




【蒲船津城跡】(柳川市三橋町蒲船津)


蒲船津城跡

 蒲船津城は、戦国時代、この一帯を治めていた蒲池氏の本拠地である柳川城を守るために設けられた、支城のひとつだったと言われています。
 肥前(佐賀)の龍造寺隆信は、天正九年(一五八一)に柳川城主の蒲池鎮並(かまちしげなみ)を謀殺すると、一気に柳川に攻め込み、蒲池氏のせん滅を企でました。この時、黒木(蒲池)益種が蒲船津城を守っていましたが、龍造寺勢の猛攻にあい落城。その後、龍造寺四天王のひとり、百武賢兼(ひゃくたけともかね)が城番になったと伝えられています。
 城の正確な位置はわかっていません。次郎丸や旗角目(はたがくめ)、門の内などの呼び名が残っている、字村中(むらなか)周辺が城跡だったと考えられています。
平成十八年六月

柳川市教育委員会

熊野神社前の案内板より




関連記事:蒲船津


















© 2011 福岡史伝