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福岡人物伝
 【安徳天皇(あんとくてんのう)

木曽義仲が京都に攻め上ると、安徳天皇は平家一門に守られ筑紫大宰府へ逃げ落ちます。 しかし、大宰府も安住の地ではなく緒方氏に攻められ四国屋島へ逃れます。 その後、「一の谷の戦い」、「屋島の戦い」と源義経の軍に破れ、ついに1185年4月「壇ノ浦の戦い」で平家軍が壊滅すると、 僅かに五歳の安徳天皇は二位の尼(平時子、外祖母で平清盛の妻)と共に入水し亡くなります。 ところで平家一門が都落ちで大宰府に入ったときは、大宰府は戦乱で焼け落ちていたといわれ、 安徳天皇は那珂川の原田種直屋敷に滞在したとも言われています。現在、その地は「安徳」という地名で残っています。




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スポットライト人物伝


【毛利勝永(もうりかつなが)】
(1578年~1915年)


毛利勝永は秀吉配下の森吉成(のち毛利勝信)の嫡男で、九州征伐の功により、田川企救郡を賜った父に従い小倉城に入ります。そして父・勝信は、約13年間この地を治めますが、その間に近隣の大勢力・毛利氏との繋がりで、姓を毛利に改めます。しかし毛利氏との間に太い血縁はなかったようです。
関ヶ原の戦いでは西軍に属し、伏見城を攻め落しますが、最終的に西軍は敗北します。この敗戦で毛利勝信、勝永親子は小倉の.....[全文を表示]




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