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福岡人物伝
 【栗隈王(くるくまおう)

「白村江の戦い」から四年後、668年7月に栗隈王は防備が整いつつあった筑紫に赴任し筑紫率(つくしのかみ)の地位につきます。 その後、翌1月には蘇我赤兄(そがあかえ)が筑紫宰(つくしのかみ)に任命されますが、赤兄は赴任した形跡が見当たらず、 実務は栗隈王が執っていたと思われ、671年には再び栗隈王が筑紫率に任命されます。この辺りの人事については、後の「壬申の乱」 に繋がる派閥闘争が既に始まっていたことを表しているのかもしれません。そしてこの年に天智天皇が崩御すると、翌年には後継者問題で皇太子の大友皇子と天皇の弟の大海人皇子の対立が表面化します。 大海人皇子派であった栗隈王は大友皇子より援軍の命を受けますが、「筑紫の兵は外敵の備えであり内乱に向ける兵ではありません。」 と断わります。この「壬申の乱」は結果的に大海人皇子が勝利し天武天皇として即位、蘇我赤兄は家族と供に流罪の刑に処せられ、 栗隈王はその三年後に兵政長官に任命されています。
因みにこの栗隈王の孫が奈良時代に藤原四兄弟に代り政権を執った橘諸兄になります。




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スポットライト人物伝


【大伴金村(おおともかなむら)】
(?~?)


西暦500年代前半から中盤にかけての大和王権の重臣。倭国の朝鮮半島へ影響力が弱まると百済に任那四県割譲を行い、 また「磐井の乱」では継体天皇に物部麁鹿火を討伐軍の将軍に推薦します。 のちに任那四県割譲問題で責められ大和政権の表舞台より去ることになります。 ちなみにこの人物は九州に来た記述はないようですが、息子の磐(いわ)と狭手彦(さてひこ)を任那支援に向かわせ、 磐は筑紫で後方支援を担当したと日本.....[全文を表示]



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