水城西門跡
特別史跡水城跡の調査成果 ここは特別史跡水城跡の西門の跡です。水城は西暦六六四年に博多湾側から攻め入ることが予想された唐・新羅軍に備えて造られた防衛施設ですが、東と西に二つの門がありました。 平成六年~八年に九州歴史資料館によって西門の周囲が発掘調査され、当初建てられた西門が八世紀前半と八世紀中頃以降の二回建てかえられたことがわかりました。はじめは実戦に備えた簡易な門でしたが、三回目の門は敵の侵攻の恐れがほぼなくなり、見かけを重視した二階建て風のりっばな門(楼門)になったようです。 また、門の両側にある土塁の断面では版築と言って、粘質土と砂質土を交互に積んでよく締め固めた様子が観察されました。(写真) さらに、この調査では、西門から鴻臚館までほぼ直線的に伸びる官道(古代の国道)の跡も見つかりました。しかし、上塁前面にあるとされていた濠(ほり)がこの官道より東側では見つかりましたが、西側では見つかりませんでした。 一方、土塁の西側付け根部分の高台では、望楼(見張り所)の可能性のある建物が見つかりました。 まだ謎の多い水城跡ですが、発掘調査によっていろいろなことがわかってきました。 平成十九年三月
大野城市教育委員会
特別史跡水城西門跡に置かれている案内板より。
【武内宿禰(たけのうちすくね)】(?~?)日本書紀には筑紫にて神功皇后の補佐をした記述もある人物です。景行天皇から仁徳天皇まで5代の天皇に仕え、 日本書紀の記述が正しいとすれば武内宿禰は300歳近い寿命を全うしたことになりますが、武内氏が数代にわたって歴任した役職ではないかともいわれています。
▲